2014.7.4記
3年ぶりに東京でリサイタルを開催する運びとなりました。
今回は 「MedtnerへのいざないVol.1」と銘打っていますが、そのメトネルについて少し書いてみたいと思います。

♥ メトネルご存知ですか?

「メトネルを弾く」と友人たちに告げると大抵、聴いたことがない、という答えが返ってきます。
そう聞くと、俄然、私は、私がハマったメトネルの音楽を伝えたくて仕方なくなります。
こんな素晴らしい作品が埋もれているなんて残念でなりません!
なんとしてでも紹介しなくては!という気になります。
しかし、勢い込んで譜読みを始めてみると、困難な作業が待ち受けているのでした。
譜読みにも時間がかかるし、暗譜も一筋縄ではいきません。
メトネルの作品はシンプルに書かれているように聞こえる曲でさえも、かなり複雑で、ややこしいのです。
さらいこまないと弾けない作品が多く、仕上げるのに時間を要します。
 

♥ ホロヴィッツの言葉

日本では、メトネルの楽譜はまだ「忘れられた調べ第1集」が全音から出ているだけで、他の作品は輸入版でないと手に入りません。
今回このDover版を手に入れるにも私は何年もの歳月待ちました。
3年くらい前でしたか、Amazonで在庫がないためかコレクターの商品として◯万円と出ていたこともありました。
やっと手に入れられたのはここ1、2年の話です。
さて、そのDover版にホロヴィッツの言葉が紹介されています。
“Why nobody plays Medtner?
He is wonderful composer.
Piano composer-in some ways deeper than Rachmaninoff.”
そして、この巻頭の言葉を記したユージン・イストミンに対して、ホロヴィッツは更に続けます。
“There are special colors-perfumes-complex rhythmic counterpoint.
I want to play it now,but it’s a lot of work!
You should play it.
Listen,I will play a few sections for you.
この赤字であるところがあのホロヴィッツでさえもそう感じたのか!と私が共感した部分でもあります。
 

♥ メトネルとの出会い

メトネルを初めて聴いたのはちらしの裏の鈴木敬吾氏の文に紹介されているように、リリヤ・ジルベルシュタインのCDででした。
展覧会の絵がメインのCDでしたが、そこに「忘れられた調べ」の中から4曲が入っていたのです。
弾いてみたいなと思い、楽譜を輸入版で手に入れ、遊びで弾いていましたが、簡単には手のうちに入りそうもないことがすぐにわかりました。
時が流れましたが、メトネルへの思いは消えることなく、2作目のCDは小品集、と思った時に1曲メトネルの曲を入れることにしたのでした。(祝祭の踊り Op.38-3  右のyoutubeでメトネル自身の演奏が聴けます。)
そのCD制作の時に、もっと幅広くメトネルの作品を知りたいと思い、いろんなCDを手に入れて聴き込みました。
メジェーエワ、アムラン、ミルン、トーザー、デミジェンコ、といったピアニストたちが録音を残してくれているのは本当に有り難いことでした。
メトネルの音楽はとっつきが悪いというか、よくわからないことが多く、主題を歌ってみて、といわれても歌えない・・・でも何か繰り返し聴いてみたくなる作品が多く、だんだん聴き込んでいくと、その曲の魅力に捉えられてしまうのです。
私はまだ、すべての曲を知った訳ではなく、聴いた曲でもすべてを好きとは言えませんが、いくつかの作品には熱狂的に夢中になっています。
例えばその中のひとつは長大な作品、ソナタホ短調「夜の風」です。
 
35分ほど切れ目なく演奏されるこの曲は、最初聴いた時にはよくわからなくてそれほどよいとも思いませんでした。
しかし、私は50回くらい聴いていってその魅力にはまり込み・・・・いつしか「これを仕上げなくては、なんとかして弾くのだ!」と決心したのです。
今回はまだ取り上げませんが、そのうち・・・。

♥ メトネルってどんな作曲家?

メトネルについては、有名でないとはいっても、ネットが普及した今、調べるとかなりのことがわかります。
一般的にはあまり知られていないようですが、マニアックなファンもいるようです。
素人受けというよりは、玄人受けする作曲家でしょう。
 
メトネルはラフマニノフやスクリャービン、プロコフィエフらと同じ時代に生きたロシアの作曲家&ピアニストでした。
しかし、時代の流れに反してといいますか、調性音楽を書き続けた作曲家で、また、大衆的な作品とは言い難い作風でしたから、先ほど挙げた作曲家たちの後ろに隠れてしまったようです。
晩年はイギリスでかなり認められたようですが、生活は苦しかったようですし、己の信ずる道を妥協なく突き進んだ作曲家だと思います。

♥ 愛と敬意と共に

私は今、愛と敬意をもってメトネルの作品と向き合っています。
何度も繰り返して聴いて良さがわかるという奥の深い作曲家なので、コンサートという1回きりという場で弾くことに不安はありますが、何か心を捉えられる、メトネルの魅力に迫る演奏ができたらと願っています。
 
大きな好奇心とともにコンサートに足をお運びいただけましたら、それほど嬉しいことはありません。
ご来場、心よりお待ち申し上げております。


ニコライ・カルロヴィチ・メトネル 略歴

18801月5日 ドイツ系ロシア人の両親の元モスクワに生まれる。父カールはモスクワでレース会社と工場を運営する実業家、母アレクサンドラは音楽家を輩出した一族の出身で声楽を学んだ。ニコライは四男。
1886(6歳) 母親の下でピアノを始める。
1891(11歳)自発的に作曲を始める。
1892(12歳)両親の反対を押し切ってモスクワ音楽院に入学。
1894(14歳)ピアノを専攻に定める。
1896(16歳)兄エミリィを介して、成功したユダヤ系ロシア人の歯科医ブラテンシ一家と知り合い、ヴァイオリンを学んでいたアンナ・ブラテンシ(1877生まれ)を思慕。
1897(17歳)翌年にかけてセルゲイ・タネーエフから不定期に対位法のレッスンを受ける。
1898(18歳)ピアノの師を当時音楽院の院長を務めていたワシリー・サフォノフに変更。
1900(20歳)ピアノ科の最優秀生として金メダルを受賞して音楽院を卒業。ピアニストとして活動開始する。
1902(22歳)夏、ピアノ曲「8つの情景画」が完成。作品番号1をつける。兄エミリィがアンナ・ブラテンシと結婚。ラフマニノフと初めて知り合い自宅に招かれてピアノを弾く。
1904(24歳)兄エミリー夫妻の住むニジニ・ノヴドロゴへ赴き、兄の諒解を得てアンナと密かに実質的な同棲状態に入る。以後、兄夫妻とメトネルは1914年まで住居と行動の多くを共にする。
1909(29歳)コンポーザーピアニストとしての評価が高まりペテルブルク音楽院の院長を務めていたグラズノフから教授陣に招かれるが断る。モスクワ音楽院の院長を務めていたイッポリトフ・イワノフからの招請を承諾、秋から翌年春にかけてモスクワ音楽院でピアノ教える。
1910(30歳)この時期以降のリサイタルでは例外的な機会を除いて全て自作だけを弾く。
1912(32歳)ゲーテ歌曲集作品6、15、18によってグリンカ賞を受賞する。
1915(35歳)秋から5年間モスクワ音楽院でピアノを教える。
1916(36歳)「ソナタ 夜の風」と「ソナタ・バラード」によってグリンカ賞を受賞。
1917(37歳)10月革命が勃発。
1918(38歳)母親がモスクワで病死。
1919(39歳)6月アンナと結婚式を挙げる。
1921(41歳)西側諸国の移住を決意。モスクワで父死去。
1923(43歳)ジュリアード音楽院から教授陣に招かれるが断る。
1924(44歳)アメリカ演奏旅行が実現。成功をおさめたがアメリカの社会には違和感と嫌悪感を覚える。
1925(45歳)パリ近郊に定住する。自作品のリサイタルを行うが不成功。
1927(47歳)演奏旅行で一時帰国。
1928(48歳)ロンドンにて自作の演奏会を開き、大成功を収める。王立音楽アカデミーの名誉会員となる。
1933(53歳)ラフマニノフの勧めで音楽論「ミューズと流行」を書き始める。
1935(55歳)ロンドンに移住する。
1936(56歳)兄エミリィがドレスデンで客死。夫妻ともに大きな精神的打撃を受ける。
1939(59歳)第二次世界大戦勃発。経済的に困る。
1946(64歳)イギリスの留学経験があり、メトネルの音楽の熱烈な愛好家だったインド南部カルナータカ地方マイソールに住むマハラジャ、シュリ・ジャヤ・ハマラジャ・ワディヤールから最初の手紙が届く。
1947(67歳)マハラジャの助成を得て、「メトネル・ソサエティ」が組織される。
1950(70歳)メトネル・ソサエティ、インドの政情不安など理由として録音レコード制作の資金援助を終える。健康悪化。
1951(71歳) 9月死期の近いことを悟りラリベルテ他の友人たちに最後の手紙を送り、作品のスケッチや草稿の多くを焼却。11月13日心臓発作によりロンドンに没す。
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1958 アンナ・メトネル、ソビエトに帰国。モスクワに住む。
1959 国立音楽出版社(モスクワ)から12巻からなるメトネル作品全集が刊行される。


↑Medtner 自作自演 Op.38-3



↑Medtner 自作自演 Op.39-4