2019.6.5記

2016年の「Medtnerへの誘いVol.2」のリサイタルから3年となる2019年6月21日、「Medtnerへの誘いVol.3」とする演奏会を開催致します!
 

♥ メトネルとともに

 
前回のリサイタルからまたまた年月が流れました。
2018年5月、私は父を亡くしました。
病気でしたので最後はよく病院に見舞いにいきました。
だんだんと父の死が近づいてくる中で、私自身は生に対して真面目に考え、今しなくては・・・とピアノに向かいました。
弾くのはメトネルの作品たち。
エレジー(Op.11-2)とか、回想ソナタなどを弾いておりました。
それらの音楽は人から喝采を浴びたいとか、自分を認めてもらおうとか、そういう気持ちから作曲されたのではない作品です。
メトネルを弾くのに本当は聴衆はいらないのかもしれないとさえ、思うくらいです。
ただ心静かにメトネルを弾いて癒される、そんな時間を持ちました。
これまでもなんども言っているようにメトネルは1度聞いただけではわかりにくい作曲家なので、演奏会で弾くのには適さないかもしれません。
CDや録音で繰り返しきくというのは面白いかと思います。
ただ、その入り口にお誘いしたいと思います。
大衆的な音楽ではありませんが、独特の味わいがあります。
ぜひ聞いていただきたく思います。

 
 
 

♥ クラシックは予習していた方が断然面白い

クラシック音楽を聴きにいく時、知っている曲だと楽しみが倍増します。
今は様々な演奏をyoutubeなどで聞けますから、予習!をおすすめします。
そうはいっても、メトネルの主題は覚えにくいし、長いと聞いている間に意識は別の方にいってしまっていつの間にか曲が終わっていた・・・なんてこともあるでしょう。
演奏が悪いと良さもわかりにくいかもしれません・・・。

しかし、一度でもきいておくと楽しみは倍増すると思います。

私自身も他の人の演奏を聴くのは好きで、機会があればいろいろ聴くようにしています。
演奏家の中には他人の演奏に影響されてしまうから聞かないという方もいらっしゃいます。
私は、こんな方法があるのか・・・と思って真似てみてもその人と同じにはなりませんし、どこかにオリジナリティは残ると思っています。
ヴァイオリニストの五嶋みどり氏のお母様の五嶋節さんが書かれた本の中でも、模倣してみる、という勉強の仕方が挙げられていました。

♥  意外と少ない音源

メトネルはだんだんと弾く人が増えてきたとはいえ、まだまだ音源も少ないです。
私は全曲はとても弾けそうにないので最初からそれはギヴアップしていますが、中にはアムラン、トーザー、ミルン、メジェーエワ(敬称略)などたくさんのメトネル作品の録音を残している人たちがいます。
エレジーひとつとっても皆さんテンポも違うし、大変興味深いです。
ソナタ三部作の2曲めのエレジーは後半、長調になって華やかに力強く終わるのですが、どうもなぜそういう展開になるのか長らくしっくりこなかったのです。しかし、メジェーエワさんのソナタ=エレジーのコーダのテンポは比較的ゆっくりで飛ばしていません。納得できるものがありました。曲の内容が腑に落ちたところで、弾いてみようと決心しました。

♥  ムジカーザのベーゼンドルファー

今回はムジカーザというサロンです。ピアノもベーゼンドルファーの200cm。実は試弾に行ってピアノが気に入ったのでホールを予約したのですがなんとそのあとにピアノが別の楽器に入れ替えになってしまったそうです。少々不安も残りますが、古い楽器というのは味のあるよいものが多いので楽しみにもしています。
私の母もドレスを縫ってくれています。
一緒に選んだ生地なのですがスパンコールがたくさんついていて、上等のハサミがすっかりダメになってしまい、2度も研ぎ屋さんに行ったとか・・・。

 
ご来場、心よりお待ち申し上げております。
 


ニコライ・カルロヴィチ・メトネル 略歴

1880年1月5日 ドイツ系ロシア人の両親の元モスクワに生まれる。父カールはモスクワでレース会社と工場を運営する実業家、母アレクサンドラは音楽家を輩出した一族の出身で声楽を学んだ。ニコライは四男。
1886(6歳) 母親の下でピアノを始める。
1891(11歳)自発的に作曲を始める。
1892(12歳)両親の反対を押し切ってモスクワ音楽院に入学。
1894(14歳)ピアノを専攻に定める。
1896(16歳)兄エミリィを介して、成功したユダヤ系ロシア人の歯科医ブラテンシ一家と知り合い、ヴァイオリンを学んでいたアンナ・ブラテンシ(1877生まれ)を思慕。
1897(17歳)翌年にかけてセルゲイ・タネーエフから不定期に対位法のレッスンを受ける。
1898(18歳)ピアノの師を当時音楽院の院長を務めていたワシリー・サフォノフに変更。
1900(20歳)ピアノ科の最優秀生として金メダルを受賞して音楽院を卒業。ピアニストとして活動開始する。
1902(22歳)夏、ピアノ曲「8つの情景画」が完成。作品番号1をつける。兄エミリィがアンナ・ブラテンシと結婚。ラフマニノフと初めて知り合い自宅に招かれてピアノを弾く。
1904(24歳)兄エミリー夫妻の住むニジニ・ノヴドロゴへ赴き、兄の諒解を得てアンナと密かに実質的な同棲状態に入る。以後、兄夫妻とメトネルは1914年まで住居と行動の多くを共にする。
1909(29歳)コンポーザーピアニストとしての評価が高まりペテルブルク音楽院の院長を務めていたグラズノフから教授陣に招かれるが断る。モスクワ音楽院の院長を務めていたイッポリトフ・イワノフからの招請を承諾、秋から翌年春にかけてモスクワ音楽院でピアノ教える。
1910(30歳)この時期以降のリサイタルでは例外的な機会を除いて全て自作だけを弾く。
1912(32歳)ゲーテ歌曲集作品6、15、18によってグリンカ賞を受賞する。
1915(35歳)秋から5年間モスクワ音楽院でピアノを教える。
1916(36歳)「ソナタ 夜の風」と「ソナタ・バラード」によってグリンカ賞を受賞。
1917(37歳)10月革命が勃発。
1918(38歳)母親がモスクワで病死。
1919(39歳)6月アンナと結婚式を挙げる。
1921(41歳)西側諸国の移住を決意。モスクワで父死去。
1923(43歳)ジュリアード音楽院から教授陣に招かれるが断る。
1924(44歳)アメリカ演奏旅行が実現。成功をおさめたがアメリカの社会には違和感と嫌悪感を覚える。
1925(45歳)パリ近郊に定住する。自作品のリサイタルを行うが不成功。
1927(47歳)演奏旅行で一時帰国。
1928(48歳)ロンドンにて自作の演奏会を開き、大成功を収める。王立音楽アカデミーの名誉会員となる。
1933(53歳)ラフマニノフの勧めで音楽論「ミューズと流行」を書き始める。
1935(55歳)ロンドンに移住する。
1936(56歳)兄エミリィがドレスデンで客死。夫妻ともに大きな精神的打撃を受ける。
1939(59歳)第二次世界大戦勃発。経済的に困る。
1946(64歳)イギリスの留学経験があり、メトネルの音楽の熱烈な愛好家だったインド南部カルナータカ地方マイソールに住むマハラジャ、シュリ・ジャヤ・ハマラジャ・ワディヤールから最初の手紙が届く。
1947(67歳)マハラジャの助成を得て、「メトネル・ソサエティ」が組織される。
1950(70歳)メトネル・ソサエティ、インドの政情不安など理由として録音レコード制作の資金援助を終える。健康悪化。
1951(71歳) 9月死期の近いことを悟りラリベルテ他の友人たちに最後の手紙を送り、作品のスケッチや草稿の多くを焼却。11月13日心臓発作によりロンドンに没す。
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1958 アンナ・メトネル、ソビエトに帰国。モスクワに住む。
1959 国立音楽出版社(モスクワ)から12巻からなるメトネル作品全集が刊行される。


↑Medtner 自作自演 Op.38-3



↑祝祭の踊り 練習風景