2016.1.18記

2014年の「Medtnerへの誘いVol.1」のリサイタルから2年となる2016年9月、「Medtnerへの誘いVol.2」とする演奏会を開催致します!
 

♥ メトネルの反響

 
前回のリサイタルでは、メトネルの音楽の素晴らしさをお伝えできるかかなり不安でしたが、やはりこちらに思い入れがあるということが伝わったのでしょうか、好意的なご感想をたくさんいただきました。
いくつかご紹介します。
 
「メトネルのおとぎ話Op.51-3、もう一度聴きたい。気になる。
演奏が終わるとよかったと思うのに音を忘れてしまっている。
ソナタ変イ長調Op.11-1は迫力があって、繊細できらめいていて感動する。
一筋縄ではいかない人生のように複雑で面白い。
心に残るメロディが見つからないのに、曲の印象は心に残って離れない。」
「メトネルの精神の爆発のような響きにはっとさせられました。」
 
私が感じているメトネルの印象を見事に捉えています。びっくりすると同時に嬉しくなりました。
 
メトネルの主題って1度で覚えられないのです。なぜでしょうね〜。
作曲家の方にきいてみましたら「主題が長い。音も混んでいるしね」とおっしゃっていました。
 
それでも、心に残る何かがあるんですね。
 
そして岡田敦子氏の批評もいただくことができ、励まされました。
 
「どの曲も完全に掌握され、作曲家によって音色と世界が変わる優れた演奏ばかりだったが、とりわけメトネルはこれ以上弾き込むことはできないと思われるほど弾き込まれており、メトネル特有の錯綜した声部がそれぞれ自在に動き、全体としてきわめて複雑な音響を呈しながらも音楽のメッセージが大胆に伝わってくる、滅多に聴くことのできない見事なメトネルの世界だった。
メトネルは、ともするとどこか不自然で自己耽溺的な演奏に陥り、結果的に作品そのものの評価を下げてしまうような危険性のある音楽だと評者は感じるのだが、そのような杞憂のまったくない、音色的にも表現的にも充実感あふれる演奏で、メトネルが作曲書法的にも表現内容的にも真に畏怖すべき作曲家であることが示された。
メトネルは一人の語り部を得た、と確信できる演奏会だった。9月23日、王子ホール)」

♥ 命あるうちに

さてさて、そもそもメトネルのこのシリーズを始めたのは今回取り上げる「夜の風」を弾きたかったからなのです。最初から35分もかかる「夜の風」を持ってくるのはどうにも気が進まなかったので、まずは「ソナタ三部作の第1曲めのソナタ」や「おとぎ話」などを第1回目に弾きました。その数年前には「忘れられた調べの朝の歌」「悲劇的ソナタ」も弾いていますし、去年は「酒神讃歌Op.10-2」「エレジーop.59-2」にも取り組みました。そうして少しずつメトネルを弾いている訳ですけれども、やはり感じるのはややこしい、入り組んでいる、という点です。メトネル自身はピアニストでしたからピアニスティックに書かれており手がハマれば弾きやすいのですが、それでも音の多さや複雑さには辟易とします。しかし、数年前にこの「夜の風」を弾くまでは死ねないと、命あるうちにこの曲を弾こうという誓いをたてたのでした。一度ラ・フォル・ジュルネで外国人のピアニストが取り上げているプログラムをみたことがありますが、日本ではイリーナ・メジューエワさんが演奏されたくらいしか知りません。(←ライヴCDにもなっていて名演です。本当にすばらしい!)
 

♥ 夜の風

夜の風はメトネルが30代の時に書いたソナタです。この曲によってメトネルはグリンカ賞という賞を得ています。
曲の冒頭にはチュッチェフの詩がエピグラフとして掲げられています。
 
夜の風よ、何に吠えているのか?
取り乱し、何をそんなに嘆くのか?・・・
ときにかすかで悲しげで、ときに騒がしい
そのただならぬ声は、何なのか?・・・
心に直接訴える言葉を用いて
謎めいた苦しみをおまえは語り続け、
うめき、ときおりの心の中をかき乱し
凄まじい音を立てるのだ!・・・
 
その恐ろしい歌をうたわないでくれ
太古の混沌の歌、祖先の歌を!
それは夜の魂たちの好む物語
彼らはむさぼるようにこれに聴き入り
死の地平から逃れようと必死にもがき
無限との合一を渇望するのだ!・・・
眠れる嵐を起こしてはいけない!
その下に混沌がうごめいているのだから。
(1836年、チュッチェフ/宮澤淳一訳)
 
メトネルはシューマンにも似て、文学にも造詣が深かったようです。こうして詩的なイメージと曲は結びついてはいますが、メトネルの奥さんのアンナによると、このように詩を掲げたとしてもそれは決してプロットを押し付けて音楽の流れをとめてしまうようなものではないということです。
 
自由な気持ちで「夜の風」を味わっていただけたらと思います。
でも、もしかしたら予習をされた方がより楽しめる曲かとも思います。
Youtubeではベレゾフスキーさんの演奏が2種類ありました。
ひとつは譜面をたてています。やはり、これほどの人でもそう簡単にはいかないのかなぁ?なんて思ってしまいましたけど流れのよい演奏です。
 
私は昨年秋に上野学園の「人と音シリーズ」でメトネルのことを研究発表しました。
そして、その時「夜の風」も初めて人前で通して弾きました。
 
一番最初に譜読みをしたのが2012年あたりだったでしょうか、前半の20分くらいをなんとか弾けるようにしたのですが、後半がなんとも厄介でしばらく作業が止まっていました。
苦労をして演奏効果のある曲ならよいのですが、私自身この曲を初めてCDで聴いたとき、さっぱりわからなかったので、これを弾いてもよいものだろうかという疑念もありました。
 
しかし、メトネルの音楽をやはり知っていただきたいと思いを新たにし、後半を仕上げて演奏した所・・・
「いやぁ、強烈な曲だね!」というご感想をいただき、何かが伝わった感があり、やりがいが感じられたのです。
 

♥ そしてショパン

リサイタルではメトネルだけではプログラム的に聴く方も弾く方も厳しいと感じたので、他に何を弾こうかと考えを巡らせました。
今回タカギクラヴィアさんから楽器をお借りするのですが、その試弾に行ったとき、そのピアノで弾いてみたい曲が次々と出てきました。もうピアノにこの曲弾いて〜と語りかけられているかのようでした。そしてそれはショパンの作品でした。
1887年製のヴィンテージニューヨークスタインウェイは素晴らしい楽器、その音の伸び、ポリフォニックなものを弾いても各声部がくっきり浮き立つ鮮明さ。ここにこんな音やラインがあったのだと再認識させられる驚きの響きです。
こんなに陰翳がつけられる楽器を弾くならショパンのマズルカやノクターン・・というわけで作品番号や作曲年代にもとらわれずに自由にセレクトしたものを演奏することにしました。
またメトネルとショパンは共に名ピアニストであったということと、ほとんどの作品がピアノ曲だという共通点があります。作風は違いますが、共に孤高の作曲家と言えるでしょう。
 
ご来場、心よりお待ち申し上げております。
 

ニコライ・カルロヴィチ・メトネル 略歴

18801月5日 ドイツ系ロシア人の両親の元モスクワに生まれる。父カールはモスクワでレース会社と工場を運営する実業家、母アレクサンドラは音楽家を輩出した一族の出身で声楽を学んだ。ニコライは四男。
1886(6歳) 母親の下でピアノを始める。
1891(11歳)自発的に作曲を始める。
1892(12歳)両親の反対を押し切ってモスクワ音楽院に入学。
1894(14歳)ピアノを専攻に定める。
1896(16歳)兄エミリィを介して、成功したユダヤ系ロシア人の歯科医ブラテンシ一家と知り合い、ヴァイオリンを学んでいたアンナ・ブラテンシ(1877生まれ)を思慕。
1897(17歳)翌年にかけてセルゲイ・タネーエフから不定期に対位法のレッスンを受ける。
1898(18歳)ピアノの師を当時音楽院の院長を務めていたワシリー・サフォノフに変更。
1900(20歳)ピアノ科の最優秀生として金メダルを受賞して音楽院を卒業。ピアニストとして活動開始する。
1902(22歳)夏、ピアノ曲「8つの情景画」が完成。作品番号1をつける。兄エミリィがアンナ・ブラテンシと結婚。ラフマニノフと初めて知り合い自宅に招かれてピアノを弾く。
1904(24歳)兄エミリー夫妻の住むニジニ・ノヴドロゴへ赴き、兄の諒解を得てアンナと密かに実質的な同棲状態に入る。以後、兄夫妻とメトネルは1914年まで住居と行動の多くを共にする。
1909(29歳)コンポーザーピアニストとしての評価が高まりペテルブルク音楽院の院長を務めていたグラズノフから教授陣に招かれるが断る。モスクワ音楽院の院長を務めていたイッポリトフ・イワノフからの招請を承諾、秋から翌年春にかけてモスクワ音楽院でピアノ教える。
1910(30歳)この時期以降のリサイタルでは例外的な機会を除いて全て自作だけを弾く。
1912(32歳)ゲーテ歌曲集作品6、15、18によってグリンカ賞を受賞する。
1915(35歳)秋から5年間モスクワ音楽院でピアノを教える。
1916(36歳)「ソナタ 夜の風」と「ソナタ・バラード」によってグリンカ賞を受賞。
1917(37歳)10月革命が勃発。
1918(38歳)母親がモスクワで病死。
1919(39歳)6月アンナと結婚式を挙げる。
1921(41歳)西側諸国の移住を決意。モスクワで父死去。
1923(43歳)ジュリアード音楽院から教授陣に招かれるが断る。
1924(44歳)アメリカ演奏旅行が実現。成功をおさめたがアメリカの社会には違和感と嫌悪感を覚える。
1925(45歳)パリ近郊に定住する。自作品のリサイタルを行うが不成功。
1927(47歳)演奏旅行で一時帰国。
1928(48歳)ロンドンにて自作の演奏会を開き、大成功を収める。王立音楽アカデミーの名誉会員となる。
1933(53歳)ラフマニノフの勧めで音楽論「ミューズと流行」を書き始める。
1935(55歳)ロンドンに移住する。
1936(56歳)兄エミリィがドレスデンで客死。夫妻ともに大きな精神的打撃を受ける。
1939(59歳)第二次世界大戦勃発。経済的に困る。
1946(64歳)イギリスの留学経験があり、メトネルの音楽の熱烈な愛好家だったインド南部カルナータカ地方マイソールに住むマハラジャ、シュリ・ジャヤ・ハマラジャ・ワディヤールから最初の手紙が届く。
1947(67歳)マハラジャの助成を得て、「メトネル・ソサエティ」が組織される。
1950(70歳)メトネル・ソサエティ、インドの政情不安など理由として録音レコード制作の資金援助を終える。健康悪化。
1951(71歳) 9月死期の近いことを悟りラリベルテ他の友人たちに最後の手紙を送り、作品のスケッチや草稿の多くを焼却。11月13日心臓発作によりロンドンに没す。
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1958 アンナ・メトネル、ソビエトに帰国。モスクワに住む。
1959 国立音楽出版社(モスクワ)から12巻からなるメトネル作品全集が刊行される。


↑Medtner 自作自演 Op.38-3



↑Medtner 自作自演 Op.39-4